留学ブログ その14

中学生からの経歴を書いてくれと言われたので書いてみようと思う。もう保育園からさかのぼってみる。

 

というわけで、保育園篇。

 

そう、僕は幼稚園ではなく保育園出身だ。父親は自分が1歳のときに離婚していないので母が仕事をしている。母は新卒から自分が生まれる少し前までは銀行に務めていたらしい。そしてその後は今に至るまでとある病院で受付をしている。

 

母方の祖父、祖母とともに暮らしており、僕はずっとおじいちゃん、おばあちゃんっ子である。そういうわけで幼い僕のことを世話できる人が家にいるのだから本来なら幼稚園に入るはずだったのだが、高齢の祖父、祖母には送り迎えは大変だということでより長時間預かってくれる保育園に行くことになった。

 

保育園への送り迎えは母の自転車の後ろに子供用のシートをつけてそこにのせてもらっていた。あんなに乗っていて楽しい乗り物はないなと今振り返って思う。やっぱり最初は母から離れるのがいやで、最初の数回は保育園について母親とわかれるのがいやで泣いたらしい。今でもそのシーンは覚えている。

 

保育園では何組に入ったかは覚えていない。が、自分の通っていたころの保育園の先生、スタッフはみんなすばらしかったように思う。保健室の先生も調子が悪くなって保健室に行くと最後にリンゴジュースをこっそりくれるのでみんな好きだった。

 

保育園は子供を預かる時間が長いので給食とおやつが出た。どれもおいしかった記憶がある。おやつにたまにレバーのから揚げが出てそれが大好きだった。

 

年に1回もちつきがあった。栄養士さん、調理師さんたちの協力のもとつきたての餅をみんなで熱いといいながらのばしてあんこをくるんだり大根おろしと醤油と絡めたりする。すごく楽しかったけどなんと最終学年のときは前年に世間がO-157で揺れたこともあり中止となってしまった。

 

先生の結婚式なんてイベントもあった。先生たちと親たちの関係がとても良好だったようでその先生の組の子供たち全員、ある先生の結婚式に招いてもらった。披露宴が終わってその後自分はなぜかピザを食べていた記憶がある。とてもおいしかったのでなぜか覚えている。

 

日光でのお泊り会はちょうど水疱瘡になってしまい行けなかった。当時の自分はまだ泳げないどころかシャワーで頭から水をかぶるのがこわく、風呂桶にお湯をためてそこに頭をつっこんで頭を洗っていたぐらいなので日光に行ってお風呂どうしようとビビりまくっていた自分はラッキーなどと思っていた。後日、日光のお土産のおさるのキーホルダーをもらったがこれは今でも持っている。

 

卒園はそれほど寂しくなかった。というよりあまり別れというものを理解しておらず何か感想がわかなかった。それまでの人生で別れというものをほぼ体験したことがなかったのだからしょうがないとは思う。

 

というわけで次回は小学校編を書きます。

 

前々からやろうと思ってやっていなかったのですがブログの終わりに今日の一曲を貼っていこうかと。

 

というわけで今回の今日の一曲は

System/ Brotherly

https://youtu.be/r1JHxVr0J14